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2011年8月16日 (火)

立待岬を訪ねて38キロウォークの旅

8月12日の汐首町無線中継所への51キロウォークに続き、13日には立待岬38キロウォークを決行した。

立待岬や石川啄木一族の墓は函館山左側先端部にある。

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石川啄木と函館(Wikipediaより抜粋)

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啄木と妻節子

明治40年5月5日、函館に移り松岡蕗堂の下宿に身を寄せるが、妻子は盛岡の妻の実家、妹は小樽駅長の義兄に託しての新生活だった。5月11日から5月末日まで函館商工会議所の臨時雇いで生計を立てる、6月、吉野白村の口利きで、弥生尋常小学校の代用教員となり、そこで片想いの女性・橘智恵子と知り合う。8月には「函館日日新聞」遊軍記者も兼ねたが、函館大火 があり、函館を離れる。9月、札幌 で『北門新報』の校正係となる。9月末、さらに小樽に移り、近く創刊される『小樽日報』の記者となるも、12月には社の内紛に関連して暴力をふるわれ退社。なお、小樽日報では同僚に野口雨情 がいた。当時の主筆が雨情と以前に確執があり、啄木も主筆と対立したことから雨情の起こした主筆排斥運動に荷担する。しかし、主筆側の巻き返しで雨情一人が退社する形になった。この主筆はそのあとに解任されている。

1908年(明治41年)1月4日、小樽市内の「社会主義 演説会」で当時の社会主義者、西川光次郎 の講演を聞き、西川と面識を得る。家族を小樽に残し、旧釧路新聞社(現在の釧路新聞 社とは無関係)に勤務するが、3月には上司である主筆への不満と東京での創作活動へのあこがれが募り、釧路 を離れる決意をする。

1912年(明治45年)3月7日、母カツ死去。4月9日、土岐は第二歌集出版の話を啄木に伝える。4月13日、啄木、小石川区久堅町にて肺結核 のため死去。妻、父、友人の若山牧水 に看取られている。享年27。

石川啄木小公園にある銅像

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17キロ地点、立待岬は2キロ先

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この坂を登り切ると立待岬である。

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石川啄木一族の墓・大正2年3月、遺骨は節子未亡人の希望で函館に移された。節子夫人や3人の子どもも眠っている。

隣には宮崎郁雨(節子夫人の妹と結婚)の墓もある。

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漸く19キロ地点 、立待岬に着いた。

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立待岬から見た湯の川方面

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2日連続、長距離ウォークは流石に疲れた。15時から実家の墓参りの予定、ここで潰れるわけにはいかない。海岸通りに出たところウォークの人たちがいたので、最後の力を振り絞って帰宅。

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