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2011年9月 4日 (日)

南極観測砕氷船しらせを見学

9月2日石狩湾新港西埠頭へ南極観測砕氷船が入港した。目的は石狩市制15周年と大型児童館「こども未来館」オープンの記念事業の一環として市が誘致。一般公開は9月3,4日の予定だったが、台風12号の影響で4日の実地は未定。3日は午前8時から午後4時まで行なった。

当日は台風の影響で暴風が吹き荒れ、デッキを歩くにも体が浮くような感じだった。

艦内はごく一部が解放されているだけ、1時間もあればゆっくり見学出来た。

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艦内の廊下は狭く、階段は急勾配、お年寄りはキツイようでした。

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南極の石

少なくとも6億年以前で学術的にも貴重なもの。氷河石は氷河期時代に氷の移動することによって、こすれて擦痕のある石で大変珍しく貴重なものである。

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見るものは少なく早々に退散、記念に帽子を購入、2500円也。

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一般に白瀬中尉として知られているが、本名は『白瀬矗(しらせのぶ)』と言い秋田県旧金浦町の
400年以上歴史のあるお寺(浄蓮寺)の長男として1861年6月13日に生まれた。
最初は北極探検を目指したが、アメリカの探検家ペアリーの北極点到達を知ると計画を南極に変更。
当時の政府に南極探検の意義を上申し費用を獲得(希望額よりかなり減額になったが・・・)。
1910年(明治43年)11月28日、隊員27名と共に東京芝浦港を出港し、1912年(明治45年)
1月28日に南緯80度50分に到達し、周辺一帯を『大和雪原(やまとゆきはら)』と命名。
6月20日、一人の死傷者もなく芝浦港に帰港する。白瀬矗51歳であった。

実際の探検ではソリを引く犬を失ってしまったり、激しいブリザードに見舞われ仲間同士が孤立しまったり
非常に過酷な探検であったそうだ。
また、『大和雪原』と命名した地点も実際には陸地ではなく氷原の上であった。
帰港した白瀬矗は日本各地からの依頼に応じ、探検の様子を講演して回ったが2~3年もすると依頼もなくなり、
その後は故郷の金浦町へ帰り生活したが、その生活は決して裕福なものではなかったそうで寂しい晩年をおくったそうだ。(白瀬南極探検隊記念館)

ノルウェーの探検家、ロアルド・アムンゼンは南極点征服後寄港途中、白瀬隊と邂逅している。その時の模様を次のように述べている。

1912年1月16日午後7時、一隻の船が接近してくるのを眺めて、われわれはいささか驚いた。わたし自身は、モーソン博士の船オーロラ号ではないかと思った。船はごく遅い速度でやってきたが、それは、なんと日本国旗を掲げていた!この探検隊が再びでてきたことは、わたしは知らなかった。昨年1911年2月頃、サウス・ビクトリアランドの沖で、氷のためオーストラリアへ引き返したことは聞いていたが、再び南極へ来航するということは誰も知らなかった。中略

船はこちらへ進んできて、われわれの前を二度通り越してから、不安定な氷の端に繋留された。中略

彼らはむやむみにペンギンを追っかけまわしていた。そして彼らの射撃の銃声が一晩中続いていた。中略

甲板には、ほうぼうに死んだものや半死のトウゾクカモメが山と積んであった。船に接する氷上ではアザラシが切り裂かれていた。その内臓部分が氷上にあった。そのアザラシはまだ生きていた。彼らに銃で楽にして上げなさいと言ったら、彼らはニタニタ笑っていた。中略

彼らの船は木造であった。ヨーロッパでは既に鋼鉄製になっていた。あのような船でよくもはらばる来たものだと感心した。(南極点征服・ロアルド・アムンゼン)

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