五輪フェンシング:残り1秒からのドラマ…フルーレ団体
日新聞 2012年08月05日 23時52分(最終更新 08月06日 02時00分)
【ロンドン川崎桂吾】日本の3剣士が決勝のピスト(舞台)へ−−。5日午後行われたフェンシング男子フルーレ団体準決勝、試合終了直前までドイツに2ポイント差をつけられた日本のエース、太田雄貴(ゆうき)選手(26)は残り1秒で追いついた。1ポイント先取で決着する延長戦はもつれにもつれ、最後はビデオ判定で「銀メダル以上」が確定。その瞬間、太田選手はガッツポーズし、千田(ちだ)健太(27)、三宅諒(りょう)(21)両選手も跳び上がった。3人の個性とチームワークが融合し、日本フェンシング界に新たな歴史を作った。
前回北京大会で銀メダルを獲得し、一躍脚光を浴びた太田選手。しかし、ロンドン大会前はどん底にいた。09年には世界ランク1位にまで上り詰めたが、昨年の世界選手権は3回戦で敗退。けがも重なり「敗因すらつかめない状態」に落ちた。
今年3月初め、幼い頃からフェンシングを教わった飯村栄彦さん(35)に太田選手から連絡があった。「レッスンをしてほしい」。北京大会前まで太田選手を指導していた飯村さんだが、太田選手はその後、飯村さんの元を離れ、東京を拠点に世界と戦ってきた。練習の申し出は、2年ぶりのことだった。
「剣が荒れている」と飯村さんは感じた。太田選手の持ち味である距離感がなくなり、突きの正確性が失われていたという。2日間、昔に戻ったようにレッスンを繰り返した。
飯村さんは「自分の芯を取り戻したかったんでしょう」と振り返る。復調の兆しが見えたのはそれからだ。
準々決勝で太田選手をしのぐ活躍を見せたのが宮城県気仙沼市出身の千田選手。北京大会後、「次は絶対メダルを取れよ」と励ましてくれた親友・小野寺諭さん(当時25歳)を東日本大震災で亡くし、被災地への思いを胸に戦った。
最年少の三宅選手は現役慶大生。哲学を学び、駆け引きの妙が持ち味。ウクライナ人コーチは「IQフェンサー」と呼ぶ。千葉県市川市出身。小学1年の頃、市のスポーツ教室で偶然、フェンシングに出合った。父正博さんが本場フランスから教本を寄り寄せ、練習場を自前で整備し、才能の開花を助けた。高校1年でジュニアの世界大会を制し、日本のホープに躍り出た。
千田選手は日本の団体の強さの秘密について「スタイルが三者三様なので相手が対策を立てにくい」と話す。三宅選手は「3人の個性とチームワークがマッチしている。いわば西洋の騎士道と日本の武士道の融合です」と分析した。
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