函館市鱒川町へ馬頭観音を訪ねて
馬頭観世音とは、農村に馬が普及し、馬の果たす役割が大きくなったためと思われ、各地にその信仰を記念して石塔が造立されるようになりました。
農作業や荷物の運搬には馬が使われることが多く、それに伴って病気や事故で死んだ愛馬を供養することもふえたと思われます。
また旅の安全や五穀豊穣、平和への祈念などの信仰も合わせて行われるようになりました。
上湯の川に入ると複雑な交差点がある。右折するとトラピスチヌ女子修道院、直進は恵山方面、左折は今回向かう鱒川町方面である。
上湯の川から徒歩で60分、馬頭観世音は置き忘れ去られたように道端にひっそりと佇んでいた。
この馬頭観世音を建之に携わったという伊藤文三さんを訪ねて詳しく聞いてみることにした。
伊藤さんは92歳になられたが頗る元気であった。は28歳の働き盛り。当時は他に立花竹三郎、佐藤与三郎、八戸房松、波多三之助、瀬川富太郎さん等が活躍されたようであった。
伊藤さんの話し
石は西ケ沢から馬で引っ張ってきた。
当時の鱒川町は開拓民が殆ど、狭い農地を利用し稲作を主に生計をたてていたが、現金収入がないため、裏山で炭焼きをやりだした。
これが思いもよらぬ現金収入になったことから馬の供養を行うため馬頭観世音建之を決めたということである。
今の西ケの沢
遠方に見えるのは三森山(裏側は南茅部、林道がある)。前方の丘のような所で炭焼きをしていた。
石碑の正面には「馬頭観世音」
裏側には「昭和22年8月17日建之」さらに「馬主一同」と刻みこまれていた。
当時の農耕馬は「馬車馬」と呼ばれ、道産子より二回りほど大きな馬で、水田の代掻き(田植えの前に水田に水を入れ、土を細かくする作業)や丸太の駆り出しに従事させられていた。
当時、死ぬと山などに放置され山犬(ペットが野生化した犬)などの餌にされていた。笹薮などに馬の骨をみることがあった。
伊藤さんとワシの会話
ワシ:お忙しいところ申し訳ありませんが、馬頭観世音についてお話しをお聞きしたいのですが。
伊藤さん:あめぇは誰だ!
ワシ:地元のもので○○といいます。親父は○○だ。
伊藤さん:あめぇは札幌へ行っている三番目か?
ワシ:ほんだ、○○だ!(ここから地元弁)
伊藤さん:おめぇ○○か、あの鼻たらし小僧が、よくも立派になったもんだな。
ワシ:別に立派になってねべさ。今だって伊藤さんから見たら鼻たらし小僧だべさ。
伊藤さん:ほんだら、なんでも聞いてけれ。
ワシ:あそこにある馬頭観世音に書いてる字が読めないから、教えてけれや。
伊藤さん:あそこに先生いるから聞いてけれ。先生は何でもわかるべや。
ワシ:どこさいる?
伊藤さん:ほれ、あそこで畑を耕しているおどこ(男)がほんだ。
そこには、野良仕事をしている夫婦がいた。誰がみても先生とは思えない。
ワシ:あの夫婦はホントに先生?ウソでねべな?
伊藤さん:おら、ウソこがね。まんず行って聞いてけれ。
実は、伊藤さんには苦い思い出がある。弟が農道で事故をお越し、伊藤さんが大事に育てていたオンコ(イチイ)を根こそぎ折ってしまったのだ。伊藤さんは憤慨し、警察に損害届けを出した経緯がある。今でも覚えているはずであるが、親切丁寧に教えてもらった。
伊藤さんいろいろ有難うございました。これからも、健康に気を付けてお元気にお過ごしください。
今回は馬頭観音建之
に秘められた、先人達を偲んでの旅でした。
②10月10日の実積 38.972歩(31.2㎞)
③10月トータル388.839歩(311.1km)
④達成率38.6%
今日も
皆様にとって素敵な1日になりますように!
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