日本初の人体解剖
江戸中期頃、人体の体の仕組みはどうなっているのか、誰も知らなかった。例えばオシッコはどうやって出てくるのか、ウンコはどうやって出てくるのか。まして、女のアソコはどうなっているか知る由もなかった。
医者や住民は死んだ人の体を裂くことに関し大きな抵抗を感じタブーとなっていた。山脇東洋は解剖の許可を何度となく京都所司代に嘆願書をだしていたが、ようやくその許可がでた。 罪人は狂ったように悲痛な叫び声を上げた。 刑吏が、刀を抜いた。 刑吏は首をはねる前に必ず聞く言葉がある「あの石にかぶりつけるか」 首を斬った瞬間、目の前にある石にかぶりつけるかと聞く、今まで誰もできなかった。 罪人の気持ちを和らげるためであるが、「そんなぐらいは・・・」といったらしめたもの、刑吏は一気に刀を振り下ろした。首は血吹雪とともにコロリと落ちた。 図は小学校教科書、杉田玄白の解剖風景 2000年度版社会(東京書籍) 東洋の場合の解剖は刑吏が行った。東洋は手術部分に墨で印をつけ、そこを刀で切り取っていた。 藤田雅矢「糞袋より一部引用」
1754年、宝暦4年閏2月7日、京都所司代直属の隠密役山脇東洋は喜びを隠しきれなかった。西河原御仕置場にはざんばら髪で白い着物を着せられた5人の罪人が引っ張り出された。
国内解剖1号となったこの男、屈嘉に「利剣夢覚信士」と戒名され京都誓願寺の墓。地には山脇東洋の墓とともに供養碑がたてられている。
杉田玄白はオランダ医学書を翻訳し解体新書とし、解剖をおこなっている。山脇東洋はこれより17年前に人体解剖をおこなっていた。
ウォーキング日記
12月の目標 775.000歩「1日25.000歩(20.0km)」
12月6日 走法 ラン&ウォーク39.131歩「31.3km」
12月トータル82.587「66.1km」
達成率55.1%
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